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Autumn of appetite
 
うーん、もしくは、FORで、

Autumn for appetite

「食欲の秋」・・・どすなぁ。



ということで、
お世話になっている某先生が岐阜のご友人からたくさん頂いたという、柿!!
スタジオで食べきれず、1個頂いちゃいました。



とっても大きい柿なのですが、
なにせ、あたしの手が大きいので
そんなに柿の大きさが強調されない。。。

ちゅうことで、
カットしました。




駅の近くに餃子専門店ができ、
どこかにある美味しいと評判のお店の初支店ということで、
できて何ヶ月にもかかわらず、早くも雑誌やTVで紹介されておりまして、、、

せっかくなので、どんなんかなぁとお持ち帰りしてみました。



8個入りで、箱代込み320円だったかな
写真は2人前す。
もちろん一人でぺロリです。

1つ1つとても小ぶりで、
いわゆる大きさなら「点天系」好きの方向けどすなぁ。
てっさの勢いごとく、一列一箸でいってしまう系どす。
皮が薄く、焼きはきれいに入ってはいるが、
どちらかといえば、蒸しのモチモチ感の方が強調されています。
お酒の肴につまみながらチビチビいくにはいいかなぁ

好き嫌いだと思うけど、
あたしはいわゆる「おかず系」の皮ゴボ系のヤキヤキが好きなので・・・
あえて、お店の名は・・・



あと、お持ち帰りで嬉しかったのは、
ニューミュンヘンのソーセージ!!



これもめちゃ大きいくて、テンション上がりあがりパクつきました!!
たぶん、15センチくらいあったと思うよぉ
おなか一杯だったもん!!


ちなみに、このソーセージを買ったのは、
先月、梅田にある阪神百貨店の催場でのイベントの時
買って帰っちゃいました!


2日目の本番では、なんと、
阪神百貨店の70年代に本当に使用されていた貴重な制服を着させていただきまして・・・



レトロで可愛い〜!!制服っしょ!!



マクベス

 


白い大阪城。
このVer.がいわゆる普段のライトアップで見ることのできる大阪城である。
ちなみに、23時になると消灯なので、その後数分の大阪城は、中の光が窓からこぼれ、
天守閣の最上階下の辺りから、目鼻口に映るそれは、鎧を纏った、まるで少し太っちょの落ち武者の顔みたいに見えて可愛く、結構好きだったりする。


この夏の出来事、9月4日
大阪城西の丸庭園で行われた「一期一会 マクベス」
構成・主演(語り手)大沢たかお氏の朗読劇を観に行くことができた。

言葉や声で何かを表現したりする“話し手”の端くれ(とてつもなく隅っこだが)の一人として、「朗読」というものにはやはりアンテナが立つのだが、
朗読そのものを考えた時、いわゆる“上手”なものをされる話し手の方は沢山いらっしゃる。

吉永小百合さんに代表される、いわゆる役者さんによるものも、また然り、であるが、
かなり以前に聞きに行った吉永さんの朗読では、目を閉じて聞いていると、なんともまぁ不思議な気分になったのをよく覚えている。

言い方はちょっと違うのだが、まるでイタコさんの言葉を聞くとこういう感覚になるんだろなぁ、という感じが一番伝わりやすいのかなぁ、
まぁ、イタコさんに話を聞いたことが無いので微妙だが。

解りにくく言ってみると、平面状にある字の羅列が飲み込まれて、音として出てきたとき、そこに物凄い“生きているもの”を感じる。
まさに、「役に魂を入れ、動く“人”として表現する人=俳優」という職業を見させてもらったなぁという感じだろうか、
あぁ、これが役者と呼ばれる人なんだなぁと。
その人の言葉では決して無いが、そこにある人々の想いがちゃんと伝わってくるのだから、これは凄いことだとあたしは思う。


何かを伝えたい、ということは、全身全霊でそこに向かってこそ生まれるものだと思うし、
誰か一人を説得することだって、ほんと、そうだし、
ましてや、考え方も生き方も物の見方もまったくそれぞれのいわゆる大衆に向かって発しようと思えば、それ相当のエネルギーを持って挑まなければ、米粒、いや、宇宙に浮かぶチリ1つ分の感情だって動かされないだろう。

では、私がそれをもっと具体化してみせる術を掴むきっかけを見出せる場として
どうしても観ておきたかったのが、大沢氏の朗読劇だった。
あー、長かった、説明、長かった。

この舞台を観るに至るまでに2年にもわたって紆余曲折があったことは、もう後にするとして、朗読劇・マクベスを本当に観にいって良かったぁと心から思ったりする。


もちろん一人芝居でもないし、いわゆる朗読という枠も超えまくっているし、
三味線奏者の吉田兄弟率いる音楽隊が生で彩っていても、ダンサーの方々が舞踏で演じていることもまたミュージカルでもない、
ステージ上もセットと言うべきものは、背後に浮かび上がる大阪城とそこにある木々ぐらいで、あとは数点の小道具と夜空と風と台風下に流れる雲ぐらいなもんだ。

それは、まさに、究極の“引き算の数式で成り立った最も美しい数字”と呼べるほど贅沢な空間であった。

プラスの組み立てで物事を“盛っていく”事は物理的にやろうと思えばいくらだって盛り続けていける。
超豪華なセットも舞台も人々も、それは出せば出すほど解りやすい華やかさを増すだろう。
しかし、何よりも勝る究極の贅沢は“イマジネーションの組み立て”だと思う。
そして、そのイマジネーションは、そこに同席し、想像を発想した人々と同数だけ生まれ続けるのだ。なんとまぁ贅沢どころか、贅沢三昧である。
イマジネーション(想像)の骨格はおそらくエッフェル塔を勝る美しさなのではないかとすら思う。

ジョン・レノンの名曲「イマジン」における“想像してごらん”を、もし人々が損得や勘定無しでイマジネーションの具体化に成功したならば、地球という世界は本当の意味で自然なものに帰れるのだろうなと考えたことがある。
そういう意味で捉えるならば、音楽は世界を救える力、いや、きっかけを持っているといえるのだろうと。
もしこの世から、文明にとっての“利益”というもの全てが喪失されたとしたならば、
何も無くなった荒野の残骸の痕で、前進するために人間が最初に創造する豊かなものは、イマジネーションなのではないか、と。


話が世界規模でえらく旅をしてしまったが、
イマジネーションの入り口に立つ門番として、大沢たかお氏という役者は、実に違和感を覚えさせないマジシャンみたいな方だなぁと思ったりする。

今思えば、あの日、そのマジシャンぷりをこの眼で目視したかったのかもしれない。
大沢氏の役者の“動”としての息遣いを目の当たりにすることで、
私の一歩踏み出す足場の小さな石を見つけるきっかけを探しに行ったのかもしれない。


To-morrow,and to-morrow,and to-morrow
Creeps in this petty pace from day to day,
To the last syllable of recorded time
And all our yesterdays have lighted fools
The way to dusty death.
Out, out,brief candle
Life's but a walking shadow;a poor player,
That struts and frets his hour upon the stage,
And then is heard no more:it is a tale
Told by an idiot,full of sound and fury,
Signifying nothing.

マクベスの終わりを告げる自身の言葉を想う日を
あの言葉で、あの声で、その何かを見たかったのかもしれない。
小さな石をあたしが見つけられたのかはまだわからないが、
とっても心に残る舞台だった。



さて、余談だが、
実は、もともと行く予定にしていたのは、この前日3日ぶんのものだった。
さらに実は、3日のを予定した後、ひょんなことから4日の公演に行かないか?と誘っていただいた。
2日間どうしようかなぁと考えはしたが、せっかくの機会だし、2日間行ってもいいかぁと誘いに乗ったのだが、
蓋を開けてみると、3日は残念ながら、台風の影響で公演が中止になってしまった。
あー、怖い怖い・・・よかったぁ、誘ってくださって!である。
行ってみると、その席は、真正面ではなかったが前から4列目でびっくり。
おまけに扇状に配列された客席具合で、そのブロック一番端だった私の席は、前列から通り道に一人はみ出てるようになっていて、前に誰もいない状態で見通しがよく、目の前の吉田兄弟の兄さんか弟さんの手さばきをとっても堪能することができ楽しかった。
だって、なかなかあんな近くで三味線の演奏見る機会ないんだもん。
して、
さらに、
第2幕での大沢氏登場時、客席後方から登場されたのだが、通り道になった通路があたしの横の通路でびっくり。
しゅるしゅるやってきて、振り返りながらあっけに取られていると、私の左肩の直ぐのところでピタッと停まり、大きく一呼吸。
般若の仮面を手で押さえながら、その下で、あと一度、さらにステージに上がる自らへの追い込みの息使いを聞くことができたことに、私の呼吸まで一瞬凍りついた感じがし、
その集中の空気感たるや、吸い込まれそうになるほどの気迫でございました。
ONE PIECEで言うところの「覇気」ですな。それも、「覇王色の覇気」ですぞ、あれは。
獲物を射程距離にロックオンしたチーターの走り出す瞬間のまなざしを、ステージに向かう背中に見たように思えること、なかなか無いでしょう、はい・・・
仮にスタッフとかで舞台袖とかでも、そこまでの感じであれを体感できたらめっちゃラッキーなのに、
ただのお客さんとして座ってただけで間近に感じられて、本当に感謝の瞬間でした。
第一線、中央で戦っている人の覇気は、本当にすごいです。
1mmでも近づけるように、進んでいかなくては、と思い知らされた9月の夜でございました。


プリンセストヨトミ??
 
一昨日夜の大阪城、


なんと、





"青く"ライトアップされているではないですか!!!!



普段は、普通に白ライトアップなんです。
見慣れているはずの夜の大阪城が・・・
すれちがう人々もこの異変に、カメラを向けたり、立ち止まって見上げたり・・・


映画化され今年ロードショーされた、万城目学氏原作の「プリンセストヨトミ」
あたしはこの原作が結構に好きだった。
若干、裏口からではあったが、映画化されることを知ったのは、もう何年もまえのことで、
ようやく撮影が始まった時も、ようやく上映が決まったときも、
もう、待ち遠しくて、楽しみで。

小説を読みながら、活字が映像に変換されていく自分の脳ミソ世界が面白くて、
その世界が、現実なのか、非・現実なのかすらの境界が危うくなるほどワクワクしたのは、
"大阪城の地下に隠された、スーパーコンピューター完備くらいの勢いの基地を持つ秘密組織”という、個人的に大好きネタがたまらなかったからだろう。

本当は“組織”自体は何だって好いのかもしれない。
“大阪城の地下に秘密基地がある”というくだりに、強烈に興味を持つものとして、
ただならぬ感情を湧き上がらせてくれた作品であったことは事実であり、
映画というフィールドでそれがどのように描かれているのかが楽しみでしかたなかった。

映画は映画である。
あくまで映画である。
脚本、というものがある以上、別物、として楽しむエンターテインメントである。
原作は、あくまで原作である。
そう、当たり前に解っていることなのだが・・・

こういう場合、脳みそ世界でおそらくすでに映像化してしまった事を恥じるべきものなのである。
あたしは解っていながら“それ”を今回行ってしまったが故、
“100%映画”として楽しむというエンターテインメントを自ら破壊してしまったのだ。

映画になった“プリンセス〜”には、残念ながら、
その下りが“無い”に等しかった。
脳みそ世界の〜スーパーコンピューター完備の秘密基地〜は、無かった。
しかし、映画がうんぬんかんぬん、という話ではないので、あしからず。



こういっておいて何だが、私は、
原作と脚本の違いにおいて生じる“食い違い残念事件”否定派、では、決して無い。

幼い頃から培ってきた“江戸川乱歩モノ食い違い事例”において、そのことは100も承知なのである。
あれはあれで、映像の世界、原作は原作で原作の世界、脳みそ世界は世界で脳みそ世界、なのだ。

すこし話は違うが、怪人20面相好きには賛否あったようらしい
金城武氏主演映画『K−20』の世界感はアリだった。
仲村トオル氏演じる明智探偵が居なくなってしまった後のことが若干気がかりではあったが、居なくなる前のいわゆる“怪人20面相”の影ありキャラは嫌いではなかった。
20面相が持つ“心の闇”の部分において、非常にわかりやすすぎるくらいの感じで物語化されていたからだ。


原作ありき脚本、の映画として、“暗”の部分を消し去ってしまったことによって、すごいスッキリしたエンターテインメント映画になったんだなぁ、と、印象的だったのが『陽気なギャングが地球を回す』だった。
ご存知、伊坂幸太郎氏原作の映画化作品、なのだが、原作での成瀬の私生活の部分がカットされ、ある意味恋愛テイストも程よく参入されている、という具合が、「恋愛モノ若干苦手です私」でもグングン楽しめるファンタジーコメディー映画になっていて、あれはあれで物語としてスッキリしていて程よい長さにも共感だった。
あのエンターテインメントとしての映像的コメディー具合がなかなか納得されないことは、ほんと、もったいないなぁ、と思ったりする。


映画だって音楽だって、長けりゃ良いってもんじゃない。
しかし、難しいのは、もともと存在するお話だったりすると、
それをいかにコンパクトにして、さらに損なわずにその面白さを伝えることが出来るか、なのだが、
お話のどの部分をピックアップしてチョイスするか、というのは、
もうこればかりは、千差万別だったりするから困ったものである。
想い入れが深い場合、それは時に致命傷になってしまったりする。
しかし、またそれですら、誰が悪い、といわれるものではないのだ。

自分の感覚や、上で言うところの“脳みそ世界”が正しいという判断は、あたしにはしかねる。
ただ、大なり小なり、それにおいての同じ感覚の持ち主がいて、負の共感や正の共感をしあう時がある。ただ、それだけのことなのではないか、などと、思うのである。



ただただ、あの日あたしが見た大阪城は青かった。
プリンセストヨトミでの大阪城は赤かった。
大阪城にその日何があったのかは分からないが、
青い大阪城を見たとき、あたしは“プリンセストヨトミ”を思い出し、大阪城に向かって走っていた。
頭に浮かんでいたのは、活字の世界であり、また、映像の世界でもあった。


だから、
楽しいんだなぁ、と
ふと、思うのである。

写真館:法隆寺 その2
 
若かりし頃の聖徳太子とお馬ちゃん



夢殿へと・・・



カクカクしてて可愛い・・・



夢殿




帰りには 夕暮れに近づき いわし雲(よく解らん、そらの一句、字余り。)





母に、法隆寺にいらっしゃる「夢違い観音」を見せたくて2人旅。
なんだかんだ、結構な距離を歩き、あっという間に日は暮れていったのでした。

写真館:法隆寺 その1
 
「柿くえば 鐘が鳴るなり 法隆寺」
正岡子規の有名な俳句ですな。

法隆寺の門前の茶屋で柿を食べていると、お寺から鐘の音が聞こえてきた・・・「あー秋はなんて静かでよい季節なのだぁ」と、まぁ、こんな情景を読んだ句、と言われているが、
実は子規、その場でこれを読んだのではなく、その後にその風景を思い出して、そして一句、して出来た句なのだそう。

なんか、分かる気がするなぁ
情景って、目の当たりにしている時は、
綺麗だなぁ、とか、凄いなぁ、とか、結構において'関心’ばかりしているけど、
後々その景色なんか思い出していると、
その時の風や音が鮮明に脳裏に映し出されて
目で見ていたその時より鮮やかに色づいて見えたりするもんなぁ。

かのレオナルド・ダ・ヴィンチは、'絵画こそ、現実・現状を切り取り・残す、『科学』だ’と言ったそうで
確かに、'写真’など存在しなかった時代に、唯一、目に映ったものをそのまま形に出来るものこそ、正に、しかり!だが、

そう思えば、日本の'俳句’もある意味では、
『旅人の残した心の映像』なのかもしれないなぁ
などと、思うのである。















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