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マクベス

 


白い大阪城。
このVer.がいわゆる普段のライトアップで見ることのできる大阪城である。
ちなみに、23時になると消灯なので、その後数分の大阪城は、中の光が窓からこぼれ、
天守閣の最上階下の辺りから、目鼻口に映るそれは、鎧を纏った、まるで少し太っちょの落ち武者の顔みたいに見えて可愛く、結構好きだったりする。


この夏の出来事、9月4日
大阪城西の丸庭園で行われた「一期一会 マクベス」
構成・主演(語り手)大沢たかお氏の朗読劇を観に行くことができた。

言葉や声で何かを表現したりする“話し手”の端くれ(とてつもなく隅っこだが)の一人として、「朗読」というものにはやはりアンテナが立つのだが、
朗読そのものを考えた時、いわゆる“上手”なものをされる話し手の方は沢山いらっしゃる。

吉永小百合さんに代表される、いわゆる役者さんによるものも、また然り、であるが、
かなり以前に聞きに行った吉永さんの朗読では、目を閉じて聞いていると、なんともまぁ不思議な気分になったのをよく覚えている。

言い方はちょっと違うのだが、まるでイタコさんの言葉を聞くとこういう感覚になるんだろなぁ、という感じが一番伝わりやすいのかなぁ、
まぁ、イタコさんに話を聞いたことが無いので微妙だが。

解りにくく言ってみると、平面状にある字の羅列が飲み込まれて、音として出てきたとき、そこに物凄い“生きているもの”を感じる。
まさに、「役に魂を入れ、動く“人”として表現する人=俳優」という職業を見させてもらったなぁという感じだろうか、
あぁ、これが役者と呼ばれる人なんだなぁと。
その人の言葉では決して無いが、そこにある人々の想いがちゃんと伝わってくるのだから、これは凄いことだとあたしは思う。


何かを伝えたい、ということは、全身全霊でそこに向かってこそ生まれるものだと思うし、
誰か一人を説得することだって、ほんと、そうだし、
ましてや、考え方も生き方も物の見方もまったくそれぞれのいわゆる大衆に向かって発しようと思えば、それ相当のエネルギーを持って挑まなければ、米粒、いや、宇宙に浮かぶチリ1つ分の感情だって動かされないだろう。

では、私がそれをもっと具体化してみせる術を掴むきっかけを見出せる場として
どうしても観ておきたかったのが、大沢氏の朗読劇だった。
あー、長かった、説明、長かった。

この舞台を観るに至るまでに2年にもわたって紆余曲折があったことは、もう後にするとして、朗読劇・マクベスを本当に観にいって良かったぁと心から思ったりする。


もちろん一人芝居でもないし、いわゆる朗読という枠も超えまくっているし、
三味線奏者の吉田兄弟率いる音楽隊が生で彩っていても、ダンサーの方々が舞踏で演じていることもまたミュージカルでもない、
ステージ上もセットと言うべきものは、背後に浮かび上がる大阪城とそこにある木々ぐらいで、あとは数点の小道具と夜空と風と台風下に流れる雲ぐらいなもんだ。

それは、まさに、究極の“引き算の数式で成り立った最も美しい数字”と呼べるほど贅沢な空間であった。

プラスの組み立てで物事を“盛っていく”事は物理的にやろうと思えばいくらだって盛り続けていける。
超豪華なセットも舞台も人々も、それは出せば出すほど解りやすい華やかさを増すだろう。
しかし、何よりも勝る究極の贅沢は“イマジネーションの組み立て”だと思う。
そして、そのイマジネーションは、そこに同席し、想像を発想した人々と同数だけ生まれ続けるのだ。なんとまぁ贅沢どころか、贅沢三昧である。
イマジネーション(想像)の骨格はおそらくエッフェル塔を勝る美しさなのではないかとすら思う。

ジョン・レノンの名曲「イマジン」における“想像してごらん”を、もし人々が損得や勘定無しでイマジネーションの具体化に成功したならば、地球という世界は本当の意味で自然なものに帰れるのだろうなと考えたことがある。
そういう意味で捉えるならば、音楽は世界を救える力、いや、きっかけを持っているといえるのだろうと。
もしこの世から、文明にとっての“利益”というもの全てが喪失されたとしたならば、
何も無くなった荒野の残骸の痕で、前進するために人間が最初に創造する豊かなものは、イマジネーションなのではないか、と。


話が世界規模でえらく旅をしてしまったが、
イマジネーションの入り口に立つ門番として、大沢たかお氏という役者は、実に違和感を覚えさせないマジシャンみたいな方だなぁと思ったりする。

今思えば、あの日、そのマジシャンぷりをこの眼で目視したかったのかもしれない。
大沢氏の役者の“動”としての息遣いを目の当たりにすることで、
私の一歩踏み出す足場の小さな石を見つけるきっかけを探しに行ったのかもしれない。


To-morrow,and to-morrow,and to-morrow
Creeps in this petty pace from day to day,
To the last syllable of recorded time
And all our yesterdays have lighted fools
The way to dusty death.
Out, out,brief candle
Life's but a walking shadow;a poor player,
That struts and frets his hour upon the stage,
And then is heard no more:it is a tale
Told by an idiot,full of sound and fury,
Signifying nothing.

マクベスの終わりを告げる自身の言葉を想う日を
あの言葉で、あの声で、その何かを見たかったのかもしれない。
小さな石をあたしが見つけられたのかはまだわからないが、
とっても心に残る舞台だった。



さて、余談だが、
実は、もともと行く予定にしていたのは、この前日3日ぶんのものだった。
さらに実は、3日のを予定した後、ひょんなことから4日の公演に行かないか?と誘っていただいた。
2日間どうしようかなぁと考えはしたが、せっかくの機会だし、2日間行ってもいいかぁと誘いに乗ったのだが、
蓋を開けてみると、3日は残念ながら、台風の影響で公演が中止になってしまった。
あー、怖い怖い・・・よかったぁ、誘ってくださって!である。
行ってみると、その席は、真正面ではなかったが前から4列目でびっくり。
おまけに扇状に配列された客席具合で、そのブロック一番端だった私の席は、前列から通り道に一人はみ出てるようになっていて、前に誰もいない状態で見通しがよく、目の前の吉田兄弟の兄さんか弟さんの手さばきをとっても堪能することができ楽しかった。
だって、なかなかあんな近くで三味線の演奏見る機会ないんだもん。
して、
さらに、
第2幕での大沢氏登場時、客席後方から登場されたのだが、通り道になった通路があたしの横の通路でびっくり。
しゅるしゅるやってきて、振り返りながらあっけに取られていると、私の左肩の直ぐのところでピタッと停まり、大きく一呼吸。
般若の仮面を手で押さえながら、その下で、あと一度、さらにステージに上がる自らへの追い込みの息使いを聞くことができたことに、私の呼吸まで一瞬凍りついた感じがし、
その集中の空気感たるや、吸い込まれそうになるほどの気迫でございました。
ONE PIECEで言うところの「覇気」ですな。それも、「覇王色の覇気」ですぞ、あれは。
獲物を射程距離にロックオンしたチーターの走り出す瞬間のまなざしを、ステージに向かう背中に見たように思えること、なかなか無いでしょう、はい・・・
仮にスタッフとかで舞台袖とかでも、そこまでの感じであれを体感できたらめっちゃラッキーなのに、
ただのお客さんとして座ってただけで間近に感じられて、本当に感謝の瞬間でした。
第一線、中央で戦っている人の覇気は、本当にすごいです。
1mmでも近づけるように、進んでいかなくては、と思い知らされた9月の夜でございました。


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